【家族の生活を守る】No.14
「二人の約束」
O・N様 52歳 東京都在住
きっかけ
価格1,290万円(頭金100万円)、他2戸
照りつける太陽。
灼熱の大地。
「エジプトに一緒に行けなくてゴメン」
亡くなる一月前くらいに突然の夫からの言葉。
返す言葉もなくただ見つめるだけの私。
昨年6月ひとりでナイル川を臨み、あれ程2人で夢見たピラミッドの前に立ちました。
精神科医として患者様ひとりひとりと真に向き合うことのできる
理想の病院を目指し、全身全霊で病院のために尽くしてまいりました。
ただでさえ、忙しい病院勤務。責任のある仕事を任されるにつれ、仕事はますます激務になり、自分を支えてくれるスタッフを裏切ることはできないと、より一層仕事に没頭するようになっていきました。
経営者としての立場から組合との確執の調整にも全力を注ぎ、病院のために信念を持って対応しておりました。そんな中、ストレスから飲めないお酒の量も増え睡眠時間も格段に減って参りました。
2004年。
患者さまのため、病院のために働いてきた夫が病に倒れたのです。
年が明けて「腰が痛い」と言い出しました。
最初は「ヘルニアだから心配ない」と、言っておりましたが、痛む箇所が微妙に違うので再三の勧めでやっと検査を受けに行きました。その様子を聞いてみると胃カメラを飲んできたというのです。(レントゲンじゃなくて胃カメラ?腰が痛むんじゃなかったの?)
帰宅してすぐ、「疲れたので横になってくる」と言い、寝室に入りました。
その後、リビングにいる私へ夫からメールが来ました。
「ちょっと来て」
(直接言えばいいのに、なんでメール?)
不審に思いながら寝室に行くと、夫が深刻な顔をして私を待っていました。そのとき夫が食道ガンに冒されていることを告げられたのです。リビングには娘がいたのでとても言えなかったと。
抗がん剤と放射線併用の治療を受け、一時退院した2004年5月。
吉祥寺のライブハウスでジャズライブを行いました。夫が中学生時代からやっているドラム。中心静脈栄養をしてのドラム演奏はいつ倒れるのかとはらはらさせられましたが、司会も演奏も予定どおりにこなし、気力だけで頑張った最期のライブでした。何より娘がトロンボーンで特別出演してくれた事が嬉しかったようでした。
そして、その年の10月、夫が亡くなりました。
享年50歳でした。
なんでこんなに早く・・・
あまりに早い夫との別れは、どこか現実感が薄く、いつか長い出張から帰ってくるのではないか。そんなふうに今でも思っています。
しかし、そうはいっても、夫が亡くなったのは確かな現実です。
二人の子供たちをこれからしっかりと育てていくためにも安定した収入源が必要でした。
夫が亡くなった当時、大学生だった息子は家庭の事情を思ってか、大学を辞めて働こうかと言い出しました。
下の娘は大学に入学した年でした。そのくらい私大の学資2人分となると大変な出費でした。
夫が若くして亡くなったことで、これから私たち家族はどうやって生活していくのかという経済的な問題に直面していました。どうやって子供たちを育てていこう、考えていた矢先の息子からの提案でした。子供達もこれからの事を気にかけてくれていたのでしょう。
そんな先行きの見えない私たち家族にとって、夫が残してくれた不動産がどれだけありがたかったか分かりません。
夫が日本財託さんから不動産を購入したのは、いまから9年前。2000年のことでした。
担当していただいた日本財託の社員さんのお人柄が気に入り、彼の勧める物件ならば間違いないと言い「不動産投資を始めたいんだ」と相談されました。
当時は自宅にたびたび不動産会社から営業電話がかかってきていて、こちらから電話を切ろうとすると嫌な捨て台詞をいわれたこともあったので、私は不動産投資に悪い印象しか持っていませんでした。
しかし、
不動産投資を始めたのは「夫婦の老後のため」という夫の言葉を聞き、目先の利益ではなくきちんと私たちの将来のために投資するということが分かりましたので、不動産投資を始めることを了解しました。
また、団体信用生命保険があり、夫に万が一のことがあったときにはローンがなくなることは知っていましたが、実際どのように申請したらよいか、私一人では分からなかったので、必要な資料、必要のない資料の分別整理までしていただいた担当の社員さんの協力が心強かったです。
子供たちを無事大学卒業させることができたのも、
いま私たち家族が何とか生活して行けるのも、
夫が残してくれた不動産のおかげだと思っています。
いつか2人で一緒にまわりたいと話した歴史的な建造物や世界遺産。夫の分まで見て回り2人の約束を果たしたいと思います。
都営丸の内線「方南町」駅 1分
交通:西武新宿線「野方」駅 5分
交通:JR山手線「大塚」駅 5分