【充実した管理システム】No.39
「投資歴40年の私の不動産投資回顧録」
L・H様 76歳 千葉県在住
きっかけ
1969年、6畳一間を借りて始まった新婚生活。サラリーマンとしての月給は10万円にも満たないものでした。
3年後、妻が仕事を辞めて得た退職金を元に、夢にまで見たマイホームを名古屋に購入しました。その後、金沢へ転勤することをきっかけに、マイホームを賃貸に出したことが賃貸経営の始まりです。
1978年、ふたたび名古屋へ戻ることになりました。こちらの都合で賃貸が付いているマイホームの明け渡しを求めるのは、あまりにも身勝手だと感じました。そこで、もう1つ新たなマイホームを名古屋に購入して、住むことにしました。
ただ、ローンの返済が負担となったため、先に購入したマイホームを売却することにしたのです。ちょうど急速な経済成長の影響で、不動産は長く持てば持つだけ値上りました。購入から10年を経て、1,000万円も高く売れたのです。
自宅の売却であっても課税され、約200万円も税金が掛かることが分かりました。欲をかいた私は、なんとか税金から逃れる道はないか考え、ワンルームマンションを購入すれば、節税対策になることを知ったのです。
早速、目黒区にあるワンルームマンションを3戸購入し、なんとか課税されることは逃れることができました。しかし、冷静になって考えれば、随分と乱暴な対策です。当時、ローンの金利は6.5%で毎月の返済は19万円でした。家賃収入15万円ですから、毎月4万円の持ち出しが必要でした。
それでも、不動産市場の成長は、まだまだ右肩上がりに続くと信じて疑わず、国内の各地にワンルームマンションを購入し、ハワイのコンドミニアムにまで手を広げました。気が付けば、国内に8戸、海外に1戸を所有し、不動産の資産価値は3億円にも上っていました。そのうち1億3千万円のローンが残っています。
50万円の家賃収入からローンの支払い額を差し引くと、毎月15万円もの持ち出しになりました。持ち出し分は、40万円ほどの給料から支払いに充てていたのです。それでも、物件を購入した不動産会社のセミナーに参加すると、10戸から20戸を所有しているオーナーがたくさんいて、肩身の狭い思いをしたものです。
1990年、ついにバブル経済が音を立てて崩壊し始めました。物件価格もアッと言う間に下落していき、4分の1になってしましました。売却してもローンの負債を埋めることもできません。生活費を除いた給料や年2回のボーナスは、全てローンの返済に使いました。大変でしたが助かったのは、東京を中心とした物件の家賃は、途絶えることなく入ってきたことです。
地方にあるワンルームマンション3戸物件を売却したのは、2005年のことです。これまで賃貸管理を任せていた不動産会社が、入居者募集に手間取り始め空室期間が長引くようになり、ローンの返済が苦しくなってきました。
新聞広告で日本財託のセミナーが開催されることを知り、ワラをも掴む思いで参加したのです。重吉社長の講演を聞き、これだっ!と膝を叩き、セミナー後の個別相談会にも参加しました。個別相談では担当者から、日本財託の賃貸管理について伺い、思い切って全て物件の賃貸管理をお願いすることにしました。
以前の不動産会社は、入居者の退去後、リフォームにかかるまでの期間も長く困っていました。日本財託には、退去後のリフォームを7日間で仕上げる「7日間ルール」があり、これまでと比べ、新しい入居者が早く決まるようになりました。
また、外国人の入居者が勝手に友人を同居させていることが分かりました。本人は悪気なく当たり前と思っていたようですが、これは契約違反です。早速、日本財託の担当者が入居者と連絡をとって、契約内容を丁寧に説明して納得していただき、友人の方には退去してもらうことができたのです。まさに、財産を託される者という日本財託の社名に恥じない行動で、今は物件の管理を任せておいて良かったと心から思っています。
最後に40年間の不動産投資の経験を通じて、感じていることをお伝えします。
石橋を叩いてもなお渡れないのと同じで、慎重になり過ぎても不動産投資は始まりません。ある程度、リスクは承知で度胸を据えて挑戦してください。また、ある程度の金銭が必要です。まずは無駄を無くす努力をして、コツコツと種銭を貯めることから、始めてみてはいかがでしょうか。努力すれば何事も上手く行くはずです。ただ、それだけではなく、人間関係の醸成にも努力しましょう。
私は、人間関係の大切さを書いた書籍「人を動かす」を人生の指南書としています。1936年に発売されて以来400万部を突破し、世界中で読まれている本です。今なお書店の棚から消えることの無い、この名書を紹介してペンを置きます。
京浜急行「京急川崎」7分
中央線「中野」8分
東急東横線「学芸大学」11分
都営三田線「高島平」1分